ありがとう
さようなら


 
『織田が書いた』
それだけで俺を居たたまれなくした文字の列が、目の前でグルグルと廻る。
分かっていた事だし、自分でも覚悟は出来ていたつもりだったのに、現実はこんなもんだ。
毎日毎日、聞き分けの悪い、或いは物分かりの悪い子供のような自分自身にじっくりと時間を掛けて、
言い聞かせてきていたつもりだったのに・・・・・。
 
一瞬で、何もかもが無駄になってしまった。
 
「どうかしたのかね?」
顔を上げると、大柄な老人が心配そうな顔で目の前に立っていた。
「・・・」
俺が無言でいたので、老人が続けて尋ねてくる。
「気分でも、悪いのかね?」
「・・・」
俺は相変わらず黙ったまま、その老人をボンヤリと見上げていた。
「何か・・・悲しい知らせかね?」
チラと老人の視線が、俺の手の中の手紙へと移った。
その老人の視線を追うように、俺は膝の上の手紙を、相変わらず焦点の合わない目で見つめた。
 
「え?」
いきなり生暖かい感触が頬に。
ギョッとして見ると、老人が連れている雑種であるらしい大きな犬が座っていた。
コイツが俺の頬を舐めたらしかった。
「君を慰めているつもりらしい」
ポンポンとその犬の頭を叩きながら老人が微笑む。
そしてゴソゴソとポケットを探ると、ハンカチを俺に差し出した。
「あ、いや。いいっすよ、こんくらい」
犬に舐められたくらいでと慌てて小さく手を振って、そのハンカチを断ろうとすると、老人はまた笑って言った。
「もう片方の頬も、拭いた方がいい」
言われてもう片方の頬に触れてみると・・・。

濡れていた。
 
涙だった。
 
自分では全く気付かなかったが、どうやら俺は泣いていたらしい。
濡れた指先を呆然と見つめる俺に、もう一度老人がハンカチを差し出す。
「使いなさい」
「・・・すんません・・・」
それだけを言うのが精一杯だった。
自分が、泣いているのだと気付いた瞬間から、堪えきれなくなった涙を拭うのに必死だったから。
 
暫くして、俺が落ち着いたのを見届けて、老人とその愛犬は帰っていった。
帰り際。
「こんな使い古し、気にせんでいいから」
ハンカチを返したいからと、住所を尋ねたらそう言われた。
「毎朝この時間に、コイツと歩いているよ。
今度見掛けた時にでも返してくれればいいし、なんだったら捨てて貰ってもいいから」
「必ず、ここにお返しに上がりますから」
大の男が『人前で泣く』。
しかも『見も知らぬ赤の他人の前で』という醜態を晒し、俺は僅かに赤面しながら約束した。
ニコニコと老人は笑って頷くと、何故だか、先程自分の愛犬にもしたように、ポンポンと俺の頭を叩いた。
何だか、死んだ秋田の爺ちゃんを思いだしてまた泣きそうになった。
ギュッと口を結んで、深々と一つお辞儀をして、その新しい涙は地面に落として吸わせた。
立ち去る老人の足音を、俺はお辞儀をしたまま聞いていた。
 
すっかり老人の足跡が消えるまで、俺の頭は上がらなかった。